昭和20年8月15日。
第二次世界大戦の終戦からことしで77年が経ちました。
77年前の終戦直後、8月18日。
戦闘機とともに浅間山に突っ込み自死した
佐久市出身の陸軍特攻隊長がいました。
西川俊彦中尉です。
この西川中尉が遺した遺書が残っています。
私たちは陸上自衛隊松本駐屯地で、
この遺書と出会いました。
西川中尉の遺した言葉が
悲惨な戦争の記憶が今を生きる私たちに
教えてくれることとは。
実際に西川中尉の飛ぶ特攻機を見た方や
小諸市の遺族会の方のお話なども交えながら、
平和の大切さを考えていきたいと思います。
昭和20年8月18日早朝7時半ごろ、
突然の轟音に庭へ飛び出した。
日の丸マークの銀翼が見えた。
やや高度を上げて旋回したのち再び我が家の屋根めざして
超低空で飛来した。
操縦者が窓を開けて敬礼していた。
顔もよく見え、直感的に「兄だ」と判った。
数回同様の旋回を繰り返し、微笑みの中に何か言っている。
「サヨナラ」と読めた。
それからおよそ20分後再び飛来し、
数回旋回した後翼を左右に振りながら北方向に飛び去った。
そして数分後、大きな爆発音がした。
第168新部隊隊長 西川俊彦陸軍中尉の最後であった。
西川俊彦中尉の弟
西川悌雄さんが遺した手記です。
陸軍特攻隊長だった西川俊彦中尉。
敗戦3日後の1945年、昭和20年8月18日。
ふるさとの佐久市の上空に飛来し、母親宛ての遺書を
母校の岩村田国民学校の校庭に投下。
母校や生家の上を旋回した後、
浅間山に向かい、命を絶ちました。
当時まだ22歳でした。
自爆の現場は翌年昭和21年5月。
前掛け山山頂で発見されました。
その後、毎年、墓標と国旗を立てることが、
西川中尉の家族の習慣になったと言います。
昭和40年、遺骨の一部を山頂に残し、
大部分を郷里の祖先の墓地に移して、
昭和48年には墓碑を建立。
親族が毎年参拝してきたそうです。
自爆した機体は
何者かによって処分されましたが、
山体に突き刺さった機関砲は、
親族が捜索し西川中尉が亡くなって27年目の
昭和48年に発見。
陸上自衛隊松本駐屯地の記念資料館に
展示保存されています。
西川中尉とは遠い親戚関係にあたる
中澤伯郎さんは現在89歳。諸に住んでいます。
当時12歳。佐久市に住んでいた中澤さんは、
西川中尉の弟さんとは同じ学校でした。
昭和20年8月18日。
西川中尉の飛ぶ機体を実際に見たといいます。
その当時のことをこう振り返ります。
中澤さん
「まずね、朝ものすごい轟音が聞こえたんですよ。
なんだろうと思って外に飛び出したところが、
飛行機が岩村田の辺りを飛んでいるのが見えたもので、
もっと近くへ行ってみましょうと思って岩村田の旋回する場所、
よく見える高台に駆けつけてそこで見ました。
大勢そこに集まっていました。
すごい轟音で飛行機が旋回。
飛行機というのは当時空高いところを飛んでいる
小さいのしか見たことないんですよ。
屋根かすめるかというくらい飛行機飛んでいて、音もすごい。
まず驚き。飛行機がこんな低空に何のために飛んできたんだろうと
びっくりして眺めたというか見たという。
何回か旋回してどこか見えなくなったと思ったらまた来るという感じで。
一級先輩の西川さんのお兄さんだ、
そのお兄さんが自分の郷里を飛行機で訪ねて、
お母さんと弟たちがいる岩村田に行って、
お父さんの生まれた中里の赤岩、
お母さんの生まれた浅科村の八島。
それから自分の出身の野沢中学。現在の野沢北高校。
そこの上を何回か旋回した。
ですから私らの視界からは一時見えなくなってまた見えて、そんな感じだったですよ。」
遺書の一部
『私は独断、皇国の再起して遂には世界の中心たり得る事を
固く信じつつ、愛機と共に我が浅間山頂に
鎮まる事に決しました。
私は、朝夕浅間山頂より皇国の・郷里の勃興を
静かに見守って居ります。
立ち上る煙を見る毎に思い興して下さい。
厳として山頂に愛機と共に在ります。
父上、母上には誠に申訳ないと存じます。
何一つ孝行をして上げる事も出来ず、
尚私一人先に死ぬと謂う事は、
不幸此の上なしと存じて居ります。
只、生命は既になかったものとあきらめて下さい。』
遺書には前半で自害を決意した失意の心境を、
後半で母親への気遣いや兄弟へ託す思いなどが綴ってあります。
中沢さん
「遺書にもありますようにね、日本は神の国であると、
世界をリードしている国であると。
当時は軍隊でなくてもそういうことは私らも
学校で似たことを教育された覚えがありますけどね。
まずは何に変えてもお国のためが第一であると、命をささげるんだという。
軍歌から何かから、歌から何かからすべて、
軍国調のものを叩き込まされましたから。
私らも小学校中学校で。
軍人さんたちなんかものすごかったと思いますよ。
命をささげるなんてことは当然のことだと。
父上様、母上様という親に向けての言葉。
それから弟たちにも何とかおまえたちもしっかりやれよ。
しっかり勉強しろよ。
日本の国はこれからどうなるかわからないが、
惑わされずにしっかり勉強して立派な人間になれよ。
立派な社会人になれよ。
国のために尽くすような人間になれよ。と強く言っていますよね。
実際にこの四人の弟さんたちみんな立派なんですよね。
高学歴で、立派な大学に入られて立派な社会人になって、
役人とか会社員になって
かなり世の中のために尽くすというか
立派な仕事をなさっていますね。
もうほとんど亡くなっていますね。
(山から自分はずっと見守っているよと
お兄さんの言葉というのはすごく重く弟さんたちにも響いたものだったと)
だと思います。
最後ご両親がね、二人が90代まで健在で、
お父さんお母さんのお世話は弟さんたちが4人で話し合って、
5年間ずつお世話しましょう。と最後は一番下の弟さんがみとったみたいですね。
(西川中尉の思いを無駄にしないように自分たちでしっかり親を守っていこう
という思いがあったんですかね。)そうですね。」
明日の命が分からないそういう時代に
懸命に生きていたんだろうな。
国を思い、もちろん故郷の両親を思い、弟たちを思い、
国の未来を思いながら、自分は自爆するけれども
あとはしっかりやってもらいたい。そういう強い思いはあったと思いますね。」
中澤さんと同じく諸に住む餐場秀志さんは、
父親を戦争で亡くしました。
遺された遺族の悲しみを知る餐場さん。
西川中尉の遺書を読み、改めて戦争の悲惨さを語ります。
「この話を知ったのは今から30年以上前、40歳くらいの頃、
遺族会の役員をしていて、青年部の歳であるから役員会に出たんですよ。
その時の会長さんが金沢豊朝さんという方で、
いろいろな役員会の席の中で雑談で、
うちの弟になる人が特攻隊で生き残って責任を感じて、
生きて帰れたのが部下に申し訳ないと飛行機もろとも、
生まれたところを何回か旋回して浅間山に突っ込んで死んだ
という話をお聞きしたことがあって、
それから10年、20年経っていつも私はそのことが頭の中にこびりついていて、
かわいそうだな、国のために考えてああいう風になっただろうけど、
大変気の毒な、まだこれから前途有望な若い青年だったから
どんな気持ちだったんだろうなと思っています。
戦争というものは、ロシアのウクライナの戦争をテレビで見ても
身近に感じている。戦争が終わって77年になるんだよね。
77年の過程にどういうことがあったかということが、
私も父親が兵隊で戦死したあと、
母ちゃんと弟と守って今日まで生きてきたけれど、
母ちゃんに口答えしたことは一度もなかった。
何でも母ちゃん一筋にやってきて家庭を守ってきたけれども、
これから子どもが私のあと継ぐが、
お前な、こういうことはあったぞということは話にはしています。」
ロシア軍のウクライナ侵攻など、
世界では戦争や紛争が絶えません。
今、戦争の時代を体験した者として、
中澤さんと餐場さんが伝えたいこととはー。
「戦争の悲惨な事例はいろいろな書物やら映像で
誰しも嫌というほどわかっていると思いますよね。
現在のウクライナ戦争を見るにつれても、
まさにあの通りだとかあれより
もっとひどかったとかいろいろなことが言われていますよね。
絶対に戦争なんかは起こさないようにしてもらいたいということは改めて思います。」
「これから戦争があったということを
これからの代の人に伝えていかないとこの平和は今の平和は忘れられちゃう。
もとから平和だという頭があるからね。
どういう時代が来るかわからないから。
大体そういことを話す人がいなくなっちゃう。
私らより年代上の人は少なくなるし、
遺族会の会員の方も若い方は体験していないからね。
いつまでも平和が続くかわからないけれど、
えらい時代を生き抜いてきた人がいなくなっちゃうね。
こういうことを語り継いでいくということが大事だと思いますよ。
私が生きている限りは遺族会の方にも
力を注がなければならないといつも思っています。」
戦争の終わりを告げた西川中尉の自爆という悲しい出来事。
戦後77年。戦争を知る世代が少なくなっている中、
西川中尉の行動と遺した遺書は、
今、私たちに―。
戦争が遺した大きな爪痕と、命の大切さ、平和の尊さを
教えてくれています。