昭和20年8月15日に

第二次世界大戦が終わってから、

ことしで75年が経ちました。

CTKでは3回シリーズで、

当時を知る

小諸市遺族会大里支部の方の

お話などをもとに

戦争の記憶をたどります。

 

2回目のきょうは、

戦後の生活、

そして今も諸区に

ふるさと遺産として残る

当時の建造物についてです。

戦争が終わっても、苦しい生活は続きました。

特に父親を失った相場隆司さん、饗場秀志さんは、

男手がいない家庭の苦しさを目の当たりにしてきました。

 

相場さん

「お米と繭しかないから、

そういうことで大変だったんじゃないかなと思う。

いくらか土地のあった人はいいけど、

ない人はお米もないから。

それでも何とかこうやって生きてこられたから、

それは母のお陰だと思います。

うちの母ちゃんも父さんはいないんだけど

それでも何とかやっていたけど、

やっぱりものはどんなものでも

大事にしたほうがいいんじゃないかと思う。」

 

饗場さん

「民生委員の人が、そのころ民生委員というものがあって、

生活保護を受けろと言っていたけど、

母ちゃんは生活保護を受けないで

自分で何とかして働きますと言って辞退して、

朝新聞配達をしたり、学校の夏休みや寒中休みには

今でいうアルバイト、

アルバイトなんていう言葉はなかったけど、

人が兄ちゃん困っているからこういうことはどうだいと言われて、

そんな仕事があれば俺はやるわいと

勇んでやって何とかしのいでいました。」

 

2人も通った旧大里小学校の敷地内には戦時中、

「奉安殿」という建物、そして「忠魂碑」が建てられていました。

奉安殿は、天皇陛下、皇后陛下の写真「御真影」と

教育勅語の謄本を保管するため、

昭和10年ごろから、全国の小学校に設置されました。

忠魂碑は戦没者を慰霊するために作られたもので、

一人ひとりの名前が刻まれています。

 

明治23年に

国民道徳の基本と教育の根本理念を明示するため

発布された教育勅語。

戦争が激化した昭和13年に

国家総動員法が施行される頃には

軍国主義の体制を正当化するために利用されていました。

 

饗場さん

「天皇陛下の御真影っていって

天皇陛下と皇后陛下の写真が納められている

教育勅語というのもそこに納められていて、

式典の時には校長先生と教頭先生が

白い手袋はめてお盆を持って持ちに行く。

奉安殿は神様だと思っていたよ。

その前を通るのだって、敬礼した。」

 

終戦後に施行された日本国憲法のもとで

新たに教育基本法が作られ、

教育勅語が効力を失うと

全国にあった奉安殿のほとんどが壊されました。

旧大里小学校も例外ではなく、

奉安殿は解体され、忠魂碑は倒されました。

戦争から帰還した大里村の若者は、

倒された忠魂碑を見て、

これでは犠牲となった先輩に申し訳ないと、

移転・再建のため動き出しました。

 

饗場さん

「同じ戦地で苦しんで、同じ生活をしたのに帰ってきてみたら

仲間が、戦死した人の名前が刻まれていて、

こんなざまで、無残なままじゃ偲びきれないということで、

それじゃいけないということで、

帰ってきた若い22、3の人たちが結集して

大里青年議会というものを作ろうじゃないかと。」

 

見晴らしの良い金平山の頂上に再建しようと、

昭和27年の冬、

まずは牛にひかせての移動を試みましたが失敗。

 

人手も少なく、重さのある忠魂碑の移動は難航しましたが、

試行錯誤を重ね、作業を始めて5日後にはついに

丸太の上を転がしながら引き上げる、という方法で

移動させることに成功しました。

 

その後、解体されていた奉安殿も移転し、

戦没者をまつる慰霊堂として再建。

平成30年度には、

昭和57年に建てられた「平和の礎」と合わせて

小諸ふるさと遺産に認定され、

丘の上から、地域の平和を祈るシンボルとなりました。