『オリンピック4連覇 伊調馨選手レスリング教室 伊調馨選手トークショー(24.11.2/3)』
女子レスリングで前人未到の
オリンピック4連覇を達成し、
世界レスリング連合の
殿堂入りも果たしている
伊調馨さんを招いての
レスリング教室と
トークショーが
11月2日(土)と
3日(日)に行われました。
特集としてお送りします。
このレスリング教室は、 子どもたちが金メダリストと 直接触れ合うことで、 夢や目標を持つことの大切さを 知ってもらおうと、 小諸市スポーツ協会の 70周年記念事業として、 開かれたものです。
教室には 小諸キッズレスリングクラブの他、 上田や佐久のレスリング教室に通う小中学生、 それに高校のレスリング部から およそ50人が参加しました。
伊調馨さんは、2004年の アテネオリンピックを皮切りに、 2016年のリオデジャネイロオリンピックまで、 4大会連続で金メダルを獲得。 史上初の4連覇を達成し 国民栄誉賞を受賞。 世界のレスリング界を 長年リードする存在として 活躍してきました。
小諸市で子どもたちを指導するのは 2010年に続き 14年ぶり2度目となります。
この日は、 2020年のアジア選手権で優勝し ことしの国体で優勝するなど、 次期オリンピック選手候補として 期待されている、 類家直美さんも訪れ、 伊調さんとともに 子どもたちに指導を行いました。
伊調さんは、 タックルのかけ方やその後の目線、 体の動きなどを 実技を交えて指導。
教わった技の実践を目指して スパーリングも行われ、 子どもたちは、 アドバイスを生かそうと 真剣な表情で取り組んでいました。
全国を舞台に活躍する 小中学生や高校生らは、 伊調さんに スパーリングを申し込もうと駆け寄り、 順番に対戦を行いました。
対戦した子どもたちは、 伊調さんのスピードや テクニックの巧みさに驚きながらも、 果敢に挑んでいました。
子どもたち 「とてもいい機会で思い出にして これからも練習に 励んでいきたいと思います。 まずは国体に出て優勝して それからオリンピックで 優勝できるように頑張ります。」
「楽しかったです。 バックに回ることを意識して これからもやっていきたいです。」 「自分で回る時に倒れた時とかに どうすれば倒れないとか どうすれば倒れても 勝てるとかそういうことを 伊調先生に教えてもらって 習ったことがわかりました。」 伊調さんは子どもたちに対し、 「きょう学んだことを次の目標にして、 仲間と切磋琢磨して頑張ってほしい。」 などと 呼び掛けていました。
伊調さん 「一生懸命当たりにくる感じが 伝わってきましたし、 私もそれに応えようと思って 頑張ったんですけど、 それがいいきっかけになればというか、 今後の練習に 少しでも参考になればうれしいです。 こういう機会が自分にとっても すごくプラスになる いい機会だと思うので 今後も続けていきたいと思いますし、 小諸の有望な選手たち、 これから楽しみだなと思います。 せっかくレスリングを通じて 出会えた仲間たちたくさんいるので、 その子たちと一生懸命 今後も取り組んでいってほしいな と思います。」
レスリング教室の翌日、 3日(日)には、 小諸市スポーツ協会創立70周年の 記念事業として、 伊調馨さんのトークショーが ベルウィンこもろで開かれました。
昭和53年のやまびこ国体では、 レスリング競技が小諸市で開催。 2028年、令和10年には、 「信州やまなみ国スポ」が 長野県で開催されることになり、 小諸市はふたたび、 レスリング競技の会場に 内定しています。 今回のトークショーは、 レスリング競技を 多くの人に知ってもらい、 さらに競技や大会を盛り上げていこうと 企画されたものです。
トークショーでは、伊調さんが、 レスリングを始めた子ども時代から、 オリンピック選手としての歩み、 そして現在にいたるまで、 その半生について 対談形式で語りました。
青森県八戸市出身の伊調さん。 7歳上の兄と3歳上の姉とともに レスリングクラブに通い、 幼少期から技術を磨いてきました。
中学では全国大会で 2連覇するなど活躍。 高校からは強豪校である 愛知県の中京女子大学付属高校に進学し、 3年生の時に初の国際大会となった アジア競技大会で準優勝。 そこから躍進が続き、 一気にオリンピック出場へと 突き進みます。
伊調さん 「初めての国際大会でも 体がまだ作り上げられていない状態だったので、 最後中国の選手に決勝戦で負けてしまいましたし、 その時に世界の壁というか、 世界ってこんな感じなんだ というのを痛感したというか、 その負けがあったからこそ その翌月のワールドカップで 自分の力を発揮できたというか、 ちゃんとしっかり練習を積むことが 大事なんだなと そこから世界選手権も優勝できたりして、 そこが自分の中で 一番伸びた時期かなと負けがあったからこそ 努力したし勝ちたいという気持ちが 強くなってそうなってくると 2年後オリンピックがある。 代表選手にからんでいけるんじゃないかなと 思い始めたのがそこら辺かもしれないですね。」
その後、 初めて女子レスリングが 正式種目となり迎えた アテネオリンピックで 金メダルを獲得した伊調さん。 ともに出場した姉の千春選手は 銀メダルとなり、 二人で優勝という目標が崩れた時の 姉妹の絆を感じさせる 知られざるエピソードについても 明かしました。
伊調さん 「姉が先に負けて、 試合が終わったあとに ドーピングコントロール室に 入らなければならなくて、 一度入ったら、出すまで出られない。 でも姉は妹の試合がこれからある。 でも妹はめちゃくちゃ泣いていると思うから ちょっとだけ出させてください。と。 会場に入る直前に姉が駆けつけてくれて、 「私は勇気がなくて最後攻められなかった。 馨は最後攻めてこい」と言ってくれて 何かこう涙が止まったんですよね。 姉のためにも優勝しなければ。 ここで負けたら二人で 泣くしかないと思ったので、 姉の力というか 姉の言葉がなかったら 私も負けていたと思います。」
その後2008年の 北京オリンピックまでの4年間、 伊調さんは 再び姉の千春さんとともに オリンピックでの優勝を目指して 歩み続けます。
伊調さん 「4年後、北京に向けてということで 一番濃い4年を送ったんじゃないかなと思います。 濃密な練習もしましたし、 そこに向けてさらに努力しなげれば、 二人で金メダルという夢は 叶えられないんだということを アテネで教わったので、 そこからの4年というのは 本当に濃かったですね。 やることをやってきた。 これ以上ないくらいやったんだ という思いがありました。」
姉妹で金メダルを目標に 向かった北京オリンピック。 結果は、自身は オリンピック2連覇を達成したものの、 姉の千春さんは銀メダルに。 しかし、表彰台に上った姉の笑顔を見て、 伊調さんは、 「メダルも大事だけれど、 やってきた濃密な4年は 金メダル以上のものだと思った。」と 振り返りました。
達成感を得た北京オリンピック後は カナダ留学など充電期間を経て 再び競技の世界に戻ってきた伊調さん。 ロンドンオリンピックに向けては 男子の練習にまざって さらに技を磨いたと言います。
伊調さん 「男子のレスリングは 世界で活躍するのは厳しく、 メダルとるのも必死。 すごい練習をなさっていて 私はそのとき オリンピック2連覇していたんですけど、 レスリングに関しては 知らないことが多かったりとか トレーニング方法もそうですし、 男子のハングリー精神。 ここまでやっても メダル取るのが大変なんだという。 女子はまた違ったプレッシャーがあるんですけど、 勝って当たり前という。 男子の方々の 取り組む姿勢に刺激を受けて、 もう1回レスリングを 学びなおしたいなと思いました。」
量も質も違い、 頭を使ったレスリングを行う男子選手。 伊調さんも 男子選手との練習を通じて 理論的に取り組むようになり、 レスリングそのもの自体を 追究した中で ロンドンオリンピックを迎えました。
ぎりぎりまで日本で調整し、 ロンドン入りした初日の練習で、 じん帯を損傷した伊調さん。 3日間何もせず臨んだ という試合で、 他をよせつけない強さを見せ、 オリンピック3連覇を果たしました。
伊調さん 「3日間レスリングしていない というのもあって爆発しましたね。 気持ちが。 やりたくてやりたくて 3日間お休みいただいた という感じでしたね。 (そこで発揮できるのは そこまで培ってきたものがー。) そこまで調整してきたからこそ、 逆に3日間のお休みが ちょうどよかった、 うまく休んでもらって、 力が十二分に発揮できた。 怪我していたんですけど、 一番いい試合ができました。 4大会の中で。 自分は日本代表という立場で オリンピックに行く。 その重圧というか責任というか、 私に負けて行けなかった人たちは たくさんいる中で、 自分に課せられた責任というか、 男子選手に混ざって 練習させてもらって 恩返しの意味も含めて 金メダルを獲ることが 私にとってはすごく重要なことで、 とれてよかった という安心感がありました。」 その後、ロンドンからリオまでは あっという間に過ぎた。 と話す伊調さん。 更にレスリングを追究する 4年間だったと言います。 そして迎えたリオでは 決勝戦での劇的な逆転劇を経て 見事、前人未到の 4連覇を果たしました。
伊調さん 「振り返って初めてわかるのは、 一つ一つの転機があって、 オリンピックというものが 人生をつくってきたというか、 アテネから始まって 姉の引退もありとか カナダ留学も経験させてもらったりとか いろいろな自分にとって刺激になるもの、 環境の変化もそうですけど、 いろいろあったんですけど、 最終的には オリンピックというものを 自分の中ではプラスにして そこを目標にして やってきた人生だったなと。 最終的には のめりこんだんでしょうね。」 そんな伊調さん。 現在は オリンピック金メダリストも育てるなど コーチとしての道も歩み始めています。
伊調さん 「チームコーチとして 携わっていく中で 何かこう自分が、 その選手が作っていく中で スパイスみたいなものを入れられたら、 その選手が どうやって自分で 成長していくかということを 見られる喜びというのを 今感じながらやっています。 体がまだ動くので、 動けるうちは打ち込みだったり スパーリングだったり 子どものレスリング教室だったり、 やれところまで やっていきたいなと思います。 肌を通して感じられる部分 スピードやパワーを感じながら やってほしいなと思う部分があるので、 そのあと口を磨いていこうかな と思っているんですけど、 今は体を使って 肌をあわせて やっていきたいと思っています。」 キッズレスリングクラブで 練習に励む子どもたちも 大勢訪れたこの日のトークショー。 伊調さんは これからの選手たちに メッセージを贈りました。 「レスリングは難しい。 難しいからこそやりがいがある。 そこに面白さだったり 楽しさを見つけてほしいと思います。 もちろん練習はきつい。 しんどい、厳しい、 それは当たり前なんですけど、 厳しい中にも楽しさがあるので、 そこがわかれば 一気に伸びていくんじゃないかな と思うので、 きついからやだ、やりたくない じゃなくて、 そこを乗り越えたら どんな自分が待っているんだろう というか、 そうするとレスリングに没頭する 夢中になる時間が増えると思います。」
1時間半に渡るトークショー。 レスリング選手としての 伊調さんのあゆみや考え方などを じっくり聞くことができる 貴重な機会となったようです。
このレスリング教室は、 子どもたちが金メダリストと 直接触れ合うことで、 夢や目標を持つことの大切さを 知ってもらおうと、 小諸市スポーツ協会の 70周年記念事業として、 開かれたものです。
教室には 小諸キッズレスリングクラブの他、 上田や佐久のレスリング教室に通う小中学生、 それに高校のレスリング部から およそ50人が参加しました。
伊調馨さんは、2004年の アテネオリンピックを皮切りに、 2016年のリオデジャネイロオリンピックまで、 4大会連続で金メダルを獲得。 史上初の4連覇を達成し 国民栄誉賞を受賞。 世界のレスリング界を 長年リードする存在として 活躍してきました。
小諸市で子どもたちを指導するのは 2010年に続き 14年ぶり2度目となります。
この日は、 2020年のアジア選手権で優勝し ことしの国体で優勝するなど、 次期オリンピック選手候補として 期待されている、 類家直美さんも訪れ、 伊調さんとともに 子どもたちに指導を行いました。
伊調さんは、 タックルのかけ方やその後の目線、 体の動きなどを 実技を交えて指導。
教わった技の実践を目指して スパーリングも行われ、 子どもたちは、 アドバイスを生かそうと 真剣な表情で取り組んでいました。
全国を舞台に活躍する 小中学生や高校生らは、 伊調さんに スパーリングを申し込もうと駆け寄り、 順番に対戦を行いました。
対戦した子どもたちは、 伊調さんのスピードや テクニックの巧みさに驚きながらも、 果敢に挑んでいました。
子どもたち 「とてもいい機会で思い出にして これからも練習に 励んでいきたいと思います。 まずは国体に出て優勝して それからオリンピックで 優勝できるように頑張ります。」
「楽しかったです。 バックに回ることを意識して これからもやっていきたいです。」 「自分で回る時に倒れた時とかに どうすれば倒れないとか どうすれば倒れても 勝てるとかそういうことを 伊調先生に教えてもらって 習ったことがわかりました。」 伊調さんは子どもたちに対し、 「きょう学んだことを次の目標にして、 仲間と切磋琢磨して頑張ってほしい。」 などと 呼び掛けていました。
伊調さん 「一生懸命当たりにくる感じが 伝わってきましたし、 私もそれに応えようと思って 頑張ったんですけど、 それがいいきっかけになればというか、 今後の練習に 少しでも参考になればうれしいです。 こういう機会が自分にとっても すごくプラスになる いい機会だと思うので 今後も続けていきたいと思いますし、 小諸の有望な選手たち、 これから楽しみだなと思います。 せっかくレスリングを通じて 出会えた仲間たちたくさんいるので、 その子たちと一生懸命 今後も取り組んでいってほしいな と思います。」
レスリング教室の翌日、 3日(日)には、 小諸市スポーツ協会創立70周年の 記念事業として、 伊調馨さんのトークショーが ベルウィンこもろで開かれました。
昭和53年のやまびこ国体では、 レスリング競技が小諸市で開催。 2028年、令和10年には、 「信州やまなみ国スポ」が 長野県で開催されることになり、 小諸市はふたたび、 レスリング競技の会場に 内定しています。 今回のトークショーは、 レスリング競技を 多くの人に知ってもらい、 さらに競技や大会を盛り上げていこうと 企画されたものです。
トークショーでは、伊調さんが、 レスリングを始めた子ども時代から、 オリンピック選手としての歩み、 そして現在にいたるまで、 その半生について 対談形式で語りました。
青森県八戸市出身の伊調さん。 7歳上の兄と3歳上の姉とともに レスリングクラブに通い、 幼少期から技術を磨いてきました。
中学では全国大会で 2連覇するなど活躍。 高校からは強豪校である 愛知県の中京女子大学付属高校に進学し、 3年生の時に初の国際大会となった アジア競技大会で準優勝。 そこから躍進が続き、 一気にオリンピック出場へと 突き進みます。
伊調さん 「初めての国際大会でも 体がまだ作り上げられていない状態だったので、 最後中国の選手に決勝戦で負けてしまいましたし、 その時に世界の壁というか、 世界ってこんな感じなんだ というのを痛感したというか、 その負けがあったからこそ その翌月のワールドカップで 自分の力を発揮できたというか、 ちゃんとしっかり練習を積むことが 大事なんだなと そこから世界選手権も優勝できたりして、 そこが自分の中で 一番伸びた時期かなと負けがあったからこそ 努力したし勝ちたいという気持ちが 強くなってそうなってくると 2年後オリンピックがある。 代表選手にからんでいけるんじゃないかなと 思い始めたのがそこら辺かもしれないですね。」
その後、 初めて女子レスリングが 正式種目となり迎えた アテネオリンピックで 金メダルを獲得した伊調さん。 ともに出場した姉の千春選手は 銀メダルとなり、 二人で優勝という目標が崩れた時の 姉妹の絆を感じさせる 知られざるエピソードについても 明かしました。
伊調さん 「姉が先に負けて、 試合が終わったあとに ドーピングコントロール室に 入らなければならなくて、 一度入ったら、出すまで出られない。 でも姉は妹の試合がこれからある。 でも妹はめちゃくちゃ泣いていると思うから ちょっとだけ出させてください。と。 会場に入る直前に姉が駆けつけてくれて、 「私は勇気がなくて最後攻められなかった。 馨は最後攻めてこい」と言ってくれて 何かこう涙が止まったんですよね。 姉のためにも優勝しなければ。 ここで負けたら二人で 泣くしかないと思ったので、 姉の力というか 姉の言葉がなかったら 私も負けていたと思います。」
その後2008年の 北京オリンピックまでの4年間、 伊調さんは 再び姉の千春さんとともに オリンピックでの優勝を目指して 歩み続けます。
伊調さん 「4年後、北京に向けてということで 一番濃い4年を送ったんじゃないかなと思います。 濃密な練習もしましたし、 そこに向けてさらに努力しなげれば、 二人で金メダルという夢は 叶えられないんだということを アテネで教わったので、 そこからの4年というのは 本当に濃かったですね。 やることをやってきた。 これ以上ないくらいやったんだ という思いがありました。」
姉妹で金メダルを目標に 向かった北京オリンピック。 結果は、自身は オリンピック2連覇を達成したものの、 姉の千春さんは銀メダルに。 しかし、表彰台に上った姉の笑顔を見て、 伊調さんは、 「メダルも大事だけれど、 やってきた濃密な4年は 金メダル以上のものだと思った。」と 振り返りました。
達成感を得た北京オリンピック後は カナダ留学など充電期間を経て 再び競技の世界に戻ってきた伊調さん。 ロンドンオリンピックに向けては 男子の練習にまざって さらに技を磨いたと言います。
伊調さん 「男子のレスリングは 世界で活躍するのは厳しく、 メダルとるのも必死。 すごい練習をなさっていて 私はそのとき オリンピック2連覇していたんですけど、 レスリングに関しては 知らないことが多かったりとか トレーニング方法もそうですし、 男子のハングリー精神。 ここまでやっても メダル取るのが大変なんだという。 女子はまた違ったプレッシャーがあるんですけど、 勝って当たり前という。 男子の方々の 取り組む姿勢に刺激を受けて、 もう1回レスリングを 学びなおしたいなと思いました。」
量も質も違い、 頭を使ったレスリングを行う男子選手。 伊調さんも 男子選手との練習を通じて 理論的に取り組むようになり、 レスリングそのもの自体を 追究した中で ロンドンオリンピックを迎えました。
ぎりぎりまで日本で調整し、 ロンドン入りした初日の練習で、 じん帯を損傷した伊調さん。 3日間何もせず臨んだ という試合で、 他をよせつけない強さを見せ、 オリンピック3連覇を果たしました。
伊調さん 「3日間レスリングしていない というのもあって爆発しましたね。 気持ちが。 やりたくてやりたくて 3日間お休みいただいた という感じでしたね。 (そこで発揮できるのは そこまで培ってきたものがー。) そこまで調整してきたからこそ、 逆に3日間のお休みが ちょうどよかった、 うまく休んでもらって、 力が十二分に発揮できた。 怪我していたんですけど、 一番いい試合ができました。 4大会の中で。 自分は日本代表という立場で オリンピックに行く。 その重圧というか責任というか、 私に負けて行けなかった人たちは たくさんいる中で、 自分に課せられた責任というか、 男子選手に混ざって 練習させてもらって 恩返しの意味も含めて 金メダルを獲ることが 私にとってはすごく重要なことで、 とれてよかった という安心感がありました。」 その後、ロンドンからリオまでは あっという間に過ぎた。 と話す伊調さん。 更にレスリングを追究する 4年間だったと言います。 そして迎えたリオでは 決勝戦での劇的な逆転劇を経て 見事、前人未到の 4連覇を果たしました。
伊調さん 「振り返って初めてわかるのは、 一つ一つの転機があって、 オリンピックというものが 人生をつくってきたというか、 アテネから始まって 姉の引退もありとか カナダ留学も経験させてもらったりとか いろいろな自分にとって刺激になるもの、 環境の変化もそうですけど、 いろいろあったんですけど、 最終的には オリンピックというものを 自分の中ではプラスにして そこを目標にして やってきた人生だったなと。 最終的には のめりこんだんでしょうね。」 そんな伊調さん。 現在は オリンピック金メダリストも育てるなど コーチとしての道も歩み始めています。
伊調さん 「チームコーチとして 携わっていく中で 何かこう自分が、 その選手が作っていく中で スパイスみたいなものを入れられたら、 その選手が どうやって自分で 成長していくかということを 見られる喜びというのを 今感じながらやっています。 体がまだ動くので、 動けるうちは打ち込みだったり スパーリングだったり 子どものレスリング教室だったり、 やれところまで やっていきたいなと思います。 肌を通して感じられる部分 スピードやパワーを感じながら やってほしいなと思う部分があるので、 そのあと口を磨いていこうかな と思っているんですけど、 今は体を使って 肌をあわせて やっていきたいと思っています。」 キッズレスリングクラブで 練習に励む子どもたちも 大勢訪れたこの日のトークショー。 伊調さんは これからの選手たちに メッセージを贈りました。 「レスリングは難しい。 難しいからこそやりがいがある。 そこに面白さだったり 楽しさを見つけてほしいと思います。 もちろん練習はきつい。 しんどい、厳しい、 それは当たり前なんですけど、 厳しい中にも楽しさがあるので、 そこがわかれば 一気に伸びていくんじゃないかな と思うので、 きついからやだ、やりたくない じゃなくて、 そこを乗り越えたら どんな自分が待っているんだろう というか、 そうするとレスリングに没頭する 夢中になる時間が増えると思います。」
1時間半に渡るトークショー。 レスリング選手としての 伊調さんのあゆみや考え方などを じっくり聞くことができる 貴重な機会となったようです。