『「アメリカへ渡った 最初の日本人大工たち」 前教育長 小林秀夫さん 出版(26.6.7)』

           
        Posted on 2026年 7月 8日      
     
       

佐久市にある、現存する最古の擬洋風学校、

国重要文化財「旧中込学校」を

設計・施工したとされる

大工・市川代治郎にかかわる

研究成果をまとめた本を、

前・小諸市教育長の小林秀夫さんが

出版しました。


佐久市にある国重要文化財「旧中込学校」。

明治8年建築で、

現存する最古の擬洋風建築物の

ひとつであるこの建物は、

佐久の大工、市川代治郎が

設計、施工したと伝えられています。


代治郎はこれまで、

「明治初期にアメリカに渡って

西洋の建築技術を学び、故郷の中込に

洋風建築の学校を建てた偉人」として

広く知られてきました。

しかしそれを裏付ける資料などは

見つかっていませんでした。


佐久市内の小中学校で校長を歴任したのち、

小諸高原美術館館長や小諸市の教育長も務めた

市内平原の小林秀夫さんは、

社会科教諭時代に「旧中込学校」を研究。

それがきっかけとなって

市川代治郎について調査を始めました。


「学校で授業を教えていたころ、

長野県中の社会科を専門にしている先生方が

組織している信州社研という会があって、

その全県大会が中込小学校であったことが

あったんですね。

その時に中込小学校で低学年、

高学年と授業をやったのですが、

高学年で市川代治郎を取り上げて、

授業をすることにしたんですね。

私も違う学校にいたんですが、

同じ研究グループで一緒にやっているうちに

すごい人がいたなと。

建物もあまり見ないような建物ですから、

やっぱりすごいなと思いながら。

でも調べてみるとあまりわからないことも

いっぱいあって、「と言われている」とか

「ようだ」とか本人が書いている

裏付けがないとかね。

そういうことで子どもたちに立派な人ですよと

言い切って大丈夫かなという気持ちもあって、

ちょっと残っていたんです。心にね。

授業はとてもいい授業になって、

子どもたちもよく調べたりして

授業そのものはすごかったんですけど、

ちょっと残っていたものですから、

機会あるごとに調べてみたということで、

続いていたんです。」


小林さんは信頼性の高い

裏付け資料などを駆使して調査を実施。


代治郎の渡米が事実であったことや

アメリカに渡り農場で大工として過ごしていたこと、

帰国後の足跡などについて新事実を明らかにしました。

 

いままで伝えられていたことで、

代治郎さんがアメリカへ行ったと

いうことがあったんですね。

裏付けがなかったものですから、

密出国したんじゃないかとか

岩倉具視の使節団にやとわれたんじゃないかとか

いろいろな説があったんですね。

それを外務省に問い合わせて、

資料があったんですよね。

明治2年と言うと、明治政府の時代で、

外国との関係がしっかりで

きつつあった時代だったんですね。

パスポートというのは相手の国との約束事で

発行できるものでしたから明治政府はそれを

きちんと管理していたんですね。

パスポートが欲しい人は申請をする。

その申請の記録が残っていて、

発行するときに発行の記録を残すんですよね。

だから両方が残っていて、

そこのところに代治郎さんの名前があって、

奥さんと子どもの名前があって。

ひとりで行ったのではなくて

23人の仲間と一緒にアメリカへ渡っていた。

ということが分かったんですね。

当時は誰でもがアメリカや外国に

行けたわけではなくて、国が決めたルール、

範囲の中の人しか行けなかったんですね。

そのルールというのは商用目的、

商売のために外国に行く場合はオッケー。

それから外国人にやとわれていく場合はオッケー、

それから曲芸師もいい。

国の制度で留学する人は行ってもいい。

それ以外はパスポートを出さなかったんですね。

そうすると代治郎さんはどういうパスポートを

もらっていったのかとなりますけど、

代治郎さんは外国人にやとわれて行ったんですね。

代治郎さんもそれを書いているんですね。

ケルムという外国人、ドイツの人に

やとわれたということがわかった。

これはいよいよ面白い。

本当に外国に行ったのか、証明しなければならない。

ということで、調べて行ったということですね。」


新事実が分かった一方で、

代治郎が中込学校建設にどのように携わっていたか

新たな資料などは見つからなかったとのこと。

これについて小林さんはー。


中込学校に関わっては、請書という、

大工さんが建物を建てるのに、

いくらで作るという証書が残っているですね。

そこに棟梁、市川代治郎って書いてあるんですよね。

自筆で。だから棟梁として

最初関わったことは確かなんですよね。

ただ、その下に実印が押されるんですけど、

実印じゃないんですよね。

別の人の印鑑で、

代理の人の印になっているんですけど、

その後、代治郎さんにお金が

払われた記録が残っていない。

設計図がなかったりとか

よくわからない点があるんですが、

あの建物は擬洋風と言って洋式の建物で、

あの頃周囲の建物はかやぶきの建物が

ほとんどその中であんな立派な建物ができたので、

きっと外国のことを知っている人なんだろうなと

みんな思うんでしょうけど

よくわからないところがあるんですね。

ただ、同じころ、

隣の青沼小学校という学校があるんですね。

そこでも同じ洋風の学校の建築が

進み始めていて設計図もできていて、

同じように請書ができているんですよ。

それと比べていくと、中込学校の請書の意味とか

いろいろなものが見えてくるんですね。

そういうこともさらに調べていくと

わかるんじゃないかなと思いますね。」


小林さんは、この本が、

市川代治郎や中込学校についての調査研究が進む

きっかけになればうれしいと話しています。

 

別の角度から、たとえばアメリカに行った

仲間の人のことだけを調べている人もいたり、

アメリカの国勢調査の記録を調べている人もいたり、

そういう方々の成果も踏まえて

ここにあるんですけど、

研究というのは連携をとったり、

お互いの思っている分野を

広げてつなげたりしながらやっていかないと

物が進まないのでそういう面が

必要かなと思いますし、それが土台になって

地元でご指摘が頂けると、さらに研究が

進むんじゃないかなと思います。

なかなか分野が狭い分野で読んでいて

興味のある方には面白いと思いますけど

そうでない方にはたいくつな中身に

なるかと思うんですけど、

興味を持たれる方が増えて

中込学校のことがさらにみなさんの

話題になって信州教育の一つのシンボルに、

改めてみなさんが見直してくださると

いいなと思いますね。」


     
   
 
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